理事長紹介 霧島市

院長略歴

みやかわ たかゆき(宮川 尚之)1969.5 島根県旭町に生まれる
1971.4 島根県浜田市に転居
1982.3 浜田市立長浜小学校卒業
1985.3 浜田市立第三中学校卒業
1988.3 島根県立浜田高等学校卒業
1996.3 国立鹿児島大学歯学部卒業
2000.3 鹿児島大学大学院歯学研究科単位習得の上で退学
2000.4 鹿児島大学歯学部文部教官助手
2002.4 鹿児島大学大学院医歯学総合研究科文部科学教官助手
2005.4 同退職
2005.5 みやかわ小児矯正歯科開設 
2010.10 医療法人まほうつ会理事長
2014.12 ハーミィ小児矯正歯科開設・院長就任
2019.4 みやかわ小児矯正歯科院長
現在に至る

日本小児歯科学会認定小児歯科専門医
日本障害者歯科学会認定障害者歯科専門医
鹿児島大学非常勤講師(平成24年度 小児歯科学)
(公社)鹿児島県歯科医師会学校歯科委員会副委員長
(公社)姶良地区歯科医師会公衆衛生委員
(一社)都城歯科医師会公衆衛生委員

学校歯科医・園歯科医
歯科医師臨床研修指導歯科医
新光保育園 園歯科医
しおん子ども園 園歯科医
カトレア幼稚園・保育園 園歯科医
鹿児島県立牧之原養護学校 学校歯科医
霧島市立青葉小学校 学校歯科医
都城市立都城西中学校 学校歯科医

所属学会
日本小児歯科学会(評議員)
日本障害者歯科学会
日本矯正歯科学会
九州矯正歯科学会
Dr. Charles H. Tweed国際歯科矯正研究財団Tweed Studyコース(アメリカ合衆国・ツーソン 2010.9)修了

主な論文
「噛みしめ型FKO適用状況と効果の検討,小児歯科学雑誌, 36(4),595-603,1998.」

「チンキャップの適用に関する再検討,小児歯科学雑誌,36(4),604-612,1998.」

「鹿児島県離島自治体における学童期の齲蝕増加に対する要因調査,口腔保健協会会報,22,27-33」

「Reproducibility of a method for analysis of morphological changes in
perioral soft tissue in children using video cameras, Journal of Oral
Rehabilitation 2006,33;202-208」

「小児の口呼吸が睡眠ならびに日中の行動におよぼす影響のアンケート調査小児歯科学雑誌 56(1): 19-25 2018」

わたしはなぜ小児歯科医となり、この霧島市国分で小児歯科専門医院を開設したのか?

中学時代
私はもともと自動車が好きだったので、自動車メーカーに就職して自動車の設計に携わろうと考えていました。工業高校に行こうかあるいは高等専門学校に行こうかなどと考えていました。しかし一方で読書が大好きでしたので、特に芥川龍之介や夏目漱石にはまったのもこの頃でした。家にある本はもとより、学校の図書館にある本はあらから読破していました。しまいには読めるものなら説明書でも読むというぐらいに活字に飢えていましたので、当然のごとく漫画も読みまくりました。そこで手塚治虫、特にブラックジャックにはまってしまいました。そこで小説家にも医者にも設計士にもと、どの夢もあきらめたくなかった私は、地元の普通科高校(県立浜田高校)に進学することにしました。

高校時代
高校時代は現実に直面させられました。往年の浜田高校は地元の進学校でしたが、私の時代にはすでにかげりが見え始め、相当優秀でないと国立大学への進学すらままならない状況でした。それでも自由な校風の中毎日を楽しく過ごすことだけを考えて生活していました。

そんな中で出会ったのが柳田邦夫さんの「ガン回廊の明日」に出会いました。そこには国立がんセンターで奮闘する医師の姿が描かれていました。私は非常な感銘を受け医学部受験を決意したのでした。しかし、時はすでに遅し。医学部どころか国立大学への合格も怪しい状況でした。当然のごとく現役の時はセンター試験(当時は共通一次)足きりにあってしまい受験すら出来ないという状況でした。

親に泣きつきあと1年だけチャンスをくださいと懇願しました。決して裕福で無い中、浪人させてくれる決断をした父に非常に感謝しています。
浪人時代:人間目標さえ定まってしまえば何とかなるもので、わずか半年も勉強すれば何とか地方の国立医学部を狙える程度の学力がついてきました。しかし運命の共通一次、この試験は点数調整や、英語の難問など大番狂わせが大量に発生しました。

医学部を受験すべきか、あるいはきちんと合格できる学部に変えるのか?本当に悩みました。わずか1-2週で人生の方向を決めないといけないのです。わずか19歳の甘っちょろい青年に・・・。

わたしが最終的に下した決断は歯学部への進路変更でした。じつは11月ごろから学部について何が勉強できるのか調べていたのです。私はガンの研究者になりたかったので歯学部でもガンの研究が出来ることは知っていました。
親にはこれ以上迷惑は掛けられない、私は歯学部受験に切り替えました。確実に合格しなくてはならない。わたしの得意科目から考えて鹿児島大学を受験することにしました。

しかしふたを開けてみるとなんと競争率は12倍近く、ショックを受けつつも背水の陣で臨んだところ、合格通知を受け取ることが出来ました。

大学時代
こうして私は鹿児島の地で大学生活を始めました。なにしろ島根の片田舎から出てきた私は、鹿児島のあまりの都会さに圧倒されていました。当然のごとくその楽しさに流されてしまい、留年という憂き目に会ってしまいました。しかしこの時期に私の妻との出会いがあったことを思えば、これは必要な経験だったのでしょう。心を入れ替えた私はまじめな学生に戻りました。

専門課程に進学し私はガンの研究者になるべく口腔病理学教室の門をたたき、講義が終わったら教室に通う生活を送っていました。そんな私に転機が訪れます。

臨床実習の始まりでした。

それまではずっとガンの研究者になるつもりでいましたが臨床実習で患者さんと触れ合っているうちに、「私が本当にしたいのは生きている人間と接することだ」ということに気づきました。さらに「ガンの研究は医者でも出来る。人口の構成からしたら歯医者は少数だ。せっかく歯科医学を修めるのだから、私は歯医者にしか出来ないことをしよう」という思いが強くなりました。そこで「歯科疾患の始まりはすべて思春期までの成長期にある」と考え、小児歯科を研修先として決めたのです。

大学院生・病院勤務時代
そこで母校の鹿児島大学小児歯科学講座の門をたたきました。当時の主任は日大出身の小椋正教授でした。小椋教授は日本の小児歯科の創始者とも言われる深田英朗先生の門下であり、well-being、口腔の健康を考えた小児歯科を実践されていました。また森主助教授が障害児の口腔管理を積極的に行っていらっしゃいました。私は何にもわからないまま、小椋教授から長く修行するなら大学院生になりなさいとの言葉をいただき、大学院生活に入りました。

小児歯科は非常に教室の雰囲気が自由でしたので、私は診療室よりもむしろ図書館や保育園、保健所などいわゆる「フィールド活動」をしていました。また、その頃結婚していましたので生活のため、OBの吉元辰二先生の診療室でアルバイトをさせてもらうことになりました。しかしそこは「吉元小児歯科学校」というべきもので、そこで生の臨床小児歯科の考え方、治療のテクニック、子どもの扱いを学びました。院長の「病気を少なくするには蛇口を絞らなくてはならない。そのためには小児期からの健康づくり、予防が大切なんだ!」という言葉に感銘を受け、とにかく吸収、何でもモデリングでした。

また、この頃小児歯科小椋教授の後任として山﨑教授が赴任されてきました。山﨑教授は咬合誘導の第一人者として学界で活躍されており、多くの臨床例を携えてやってこられました。小児期からの咬合管理の面白さと、重要性を毎日のように熱く語られ、その経験と症例を惜しげも無く医局員に紹介して下さいました。このように大学では毎日エキサイティングな日々を過ごしていました。

大学病院での生活も長くなってくると、なんとなく自分が本当にしたいことは研究ではなく、臨床、それも地域に根ざした臨床なのではないかと考えるようになりました。また鹿児島県ではいろいろな施設が鹿児島市に一極集中しています。障害を持った子ども達は大学病院まで定期健診のために学校を休んでやってきます。治療となると何度も休んでやってきます。当時小児歯科専門医院は鹿児島県内に5軒ありましたが、すべて鹿児島市内でした。私は歯科に受診する学校を1日あきらめることは、その子にとって大切な時間を失わせることと考えました。

そこで地方都市に小児歯科専門医院を作って、地方の子どもが普段の生活を犠牲にすることなく健康づくりができるよう、鹿児島県の中心ともいえるこの霧島市国分で開院することにしたのです。

当時鹿児島大学小児歯科の講師を辞して、小児歯科専門医院のデンタマンランドを開院されていた奥猛志先生の診療室を見学させて頂き、そのすばらしい活動に触れた事、また山﨑教授の「地方で小児歯科医療が充実するのは大変良いことです。私も精一杯バックアップするから」という暖かく、心強いお言葉は、開業への不安を払拭するに十分なものでした。今でも当時お世話になった先生方には、いまだに様々な分野でお世話になりっぱなしです。いつか恩返しをと思うのですが、そのような先生方はどんどん先へ進まれますので、お会いするたびに影響を受けます。
そんな経緯でルタンはうすを平成17年の5月に、無事開院することができました。
開院してからは、おかげさまで多くの患者さんや保護者の方のご支持を頂くと共に、地域の先生からも支えて頂き、日々診療に没頭する毎日でした。

その間に髙裕子先生、松元一生先生、伴祐輔先生、伊賀上洋輔先生といった小児歯科を志す先生方が集まってくれ、また医療法人を設立し、医院を永続的な組織にし、地域の小児歯科医療の火を消さない決意も致しました。そして盤石の体制で子どもたちの健康をサポートすることができるようになりました。
一方で、やはり志布志や財部、岩川、末吉といった遠方からの患者さんが1時間以上の時間をかけていらっしゃる事も気になり始めました。

そこで私はもう一度、子どもたちが通いやすい小児歯科専門医院を作ろう、そしてそれは医療機関が集約された都城市にしようと決意し、都城市に小児歯科専門医院を設立する事を決断したのです。

そして無事平成26年12月に、宮崎県歯科医師会、都城市歯科医師会のご理解のもと、ハーミィ小児矯正歯科を開設する事が出来ました。

これからも「みんなが幸せになる」をキーワードにして、当院に関わるすべての人、すなわち患者さん、保護者の方、職員一同、業者の方々の幸せと健康を作ることが当院の社会的使命と考えています。

理事長 宮川尚之の思いはこちら