予防歯科 メンテナンス

 

わたしはなぜ小児歯科医となり、この霧島市国分で小児歯科専門医院を開設したのか?

 

中学時代
私はもともと自動車が好きだったので、自動車メーカーに就職して自動車の設計に携わろうと考えていました。工業高校に行こうかあるいは高等専門学校に行こうかなどと考えていました。しかし一方で読書が大好きでしたので、特に芥川龍之介や夏目漱石にはまったのもこの頃でした。家にある本はもとより、学校の図書館にある本はあらから読破していました。しまいには読めるものなら説明書でも読むというぐらいに活字に飢えていましたので、当然のごとく漫画も読みまくりました。そこで手塚治虫、特にブラックジャックにはまってしまいました。そこで小説家にも医者にも設計士にもと、どの夢もあきらめたくなかった私は、地元の普通科高校(県立浜田高校)に進学することにしました。


高校時代
高校時代は現実に直面させられました。往年の浜田高校は地元の進学校でしたが、私の時代にはすでにかげりが見え始め、相当優秀でないと国立大学への進学すらままならない状況でした。それでも自由な校風の中毎日を楽しく過ごすことだけを考えて生活していました。そんな中で出会ったのが柳田邦夫さんの「ガン回廊の明日」に出会いました。そこには国立がんセンターで奮闘する医師の姿が描かれていました。私は非常な感銘を受け医学部受験を決意したのでした。しかし、時はすでに遅し。医学部どころか国立大学への合格も怪しい状況でした。当然のごとく現役の時はセンター試験(当時は共通一次)足きりにあってしまい受験すら出来ないという状況でした。

 

親に泣きつきあと1年だけチャンスをくださいと懇願しました。決して裕福で無い中、浪人させてくれる決断をした父に非常に感謝しています。

 

浪人時代
人間目標さえ定まってしまえば何とかなるもので、わずか半年も勉強すれば何とか地方の国立医学部を狙える程度の学力がついてきました。しかし運命の共通一次、この試験は点数調整や、英語の難問など大番狂わせが大量に発生しました。

医学部を受験すべきか、あるいはきちんと合格できる学部に変えるのか?本当に悩みました。わずか1−2週で人生の方向を決めないといけないのです。わずか19歳の甘っちょろい青年に・・・。

わたしが最終的に下した決断は歯学部への進路変更でした。じつは11月ごろから学部について何が勉強できるのか調べていたのです。私はガンの研究者になりたかったので歯学部でもガンの研究が出来ることは知っていました。
親にはこれ以上迷惑は掛けられない、私は歯学部受験に切り替えました。確実に合格しなくてはならない。わたしの得意科目から考えて鹿児島大学を受験することにしました。

しかしふたを開けてみるとなんと競争率は12倍近く、ショックを受けつつも背水の陣で臨んだところ、合格通知を受け取ることが出来ました。

 

大学時代
こうして私は鹿児島の地で大学生活を始めました。なにしろ島根の片田舎から出てきた私は、鹿児島のあまりの都会さに圧倒されていました。当然のごとくその楽しさに流されてしまい、留年という憂き目に会ってしまいました。しかしこの時期に私の妻との出会いがあったことを思えば、これは必要な経験だったのでしょう。心を入れ替えた私はまじめな学生に戻りました。専門課程に進学し私はガンの研究者になるべく口腔病理学教室の門をたたき、講義が終わったら教室に通う生活を送っていました。そんな私に転機が訪れます。臨床実習の始まりでした。それまではずっとガンの研究者になるつもりでいましたが臨床実習で患者さんと触れ合っているうちに、「私が本当にしたいのは生きている人間と接することだ」ということに気づきました。さらに「ガンの研究は医者でも出来る。人口の構成からしたら歯医者は少数だ。せっかく歯科医学を修めるのだから、私は歯医者にしか出来ないことをしよう」という思いが強くなりました。そこで「歯科疾患の始まりはすべて思春期までの成長期にある」と考え、小児歯科を研修先として決めたのです。

 

大学院生・病院勤務時代
そこで母校の鹿児島大学小児歯科学講座の門をたたきました。当時の主任は日大出身の小椋正教授でした。小椋教授は日本の小児歯科の創始者とも言われる深田英朗先生の門下であり、well-being、口腔の健康を考えた小児歯科を実践されていました。また森主助教授が障害児の口腔管理を積極的に行っていらっしゃいました。私は何にもわからないまま、小椋教授から長く修行するなら大学院生になりなさいとの言葉をいただき、大学院生活に入りました。

小児歯科は非常に教室の雰囲気が自由でしたので、私は診療室よりもむしろ図書館や保育園、保健所などいわゆる「フィールド活動」をしていました。また、その頃結婚していましたので生活のため、OBの吉元辰二先生の診療室でアルバイトをさせてもらうことになりました。しかしそこは「吉元小児歯科学校」というべきもので、そこで生の臨床小児歯科の考え方、治療のテクニック、子どもの扱いを学びました。院長の「病気を少なくするには蛇口を絞らなくてはならない。そのためには小児期からの健康づくり、予防が大切なんだ!」という言葉に感銘を受け、とにかく吸収、何でもモデリングでした。

また、この頃小児歯科小椋教授の後任として山ア教授が赴任されてきました。山ア教授は咬合誘導の第一人者として学会で活躍されており、多くの臨床例を携えてやってこられました。小児期からの咬合管理の面白さと、重要性を毎日のように熱く語られ、その経験と症例を惜しげも無く医局員に紹介して下さいました。このように大学では毎日エキサイティングな日々を過ごしていました。

大学病院での生活も長くなってくると、なんとなく自分が本当にしたいことは研究ではなく、臨床、それも地域に根ざした臨床なのではないかと考えるようになりました。また鹿児島県ではいろいろな施設が鹿児島市に一極集中しています。障害を持った子ども達は大学病院まで定期健診のために学校を休んでやってきます。治療となると何度も休んでやってきます。当時小児歯科専門医院は鹿児島県内に5軒ありましたが、すべて鹿児島市内でした。私は歯科に受診する学校を1日あきらめることは、その子にとって大切な時間を失わせることと考えました。

そこで地方都市に小児歯科専門医院を作って、地方の子どもが普段の生活を犠牲にすることなく健康づくりができるよう、鹿児島県の中心ともいえるこの霧島市国分で開院することにしたのです。

当時鹿児島大学小児歯科の講師を辞して、小児歯科専門医院のデンタマンランドを開院されていた奥猛志先生の診療室を見学させて頂き、そのすばらしい活動に触れた事、また山ア教授の「地方で小児歯科医療が充実するのは大変良いことです。私も精一杯バックアップするから」という暖かく、心強いお言葉は、開業への不安を払拭するに十分なものでした。今でも当時お世話になった先生方には、いまだに様々な分野でお世話になりっぱなしです。いつか恩返しをと思うのですが、そのような先生方はどんどん先へ進まれますので、お会いするたびに影響を受けます。

そんな経緯でルタンはうすを平成17年の5月に、無事開院することができました。

「みんなが幸せになる」をキーワードにして、当院に関わるすべての人、すなわち患者さん、保護者の方、職員一同、業者の方々の幸せと健康を作ることが当院の社会的使命と考えています。